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わたくし、Makotoのプロフィールをご紹介します。どうぞ最後までお読みくださいませ。
なんとなくIT業界に飛び込み、2度の倒産を経験後、フリーランスとして独立するまでの経歴をご紹介します!
経歴サマリ
1981年 高知県生まれ
2000年 関西大学入学
2002年 関西大学中退
2008年 SES企業に入社。2か月後に倒産しSES②に移籍
2010年 SES②倒産。SES③に移籍 ★人生のどん底期
2012年 小売業向けPOSシステム開発会社に転職
2016年 POSシステムがクラウド(Azure)対応に ★人生の転換期
2019年 フリーランスエンジニアとして独立。Udemyで副業を開始。
2020年 合同会社設立
独立するまでの主なキャリアはヘルプデスクです。クラウド(Azure)に携わるようになったことをきっかけにエンジニア路線へキャリアチェンジしました。順番にご紹介していきますね。
生い立ち
高知県須崎市生まれ。
男3人兄弟の末っ子で、3つ上の兄、同い年の兄がいます。
はい、そうです。双子です。
ある時、父が「同時に2人は予想外だった!」的なことをポロっと漏らしていて「そりゃ、そうだわな」と思いました。笑 (末っ子の私は「それ言うなよ」とも思いました・・)
そんな父は慶応大学卒の銀行員でした。
きっと、たくさん勉強してきたのでしょう。そんな父からは
と言われて育ちました。
ま、子供の教育における一昔前の典型的なセリフではないでしょうか。
兄の背中を追いかけて、私も塾に通い、中高一貫の進学校を受験し、兄と同じ「関西大学」に入学しました。受験に関しては一度も失敗したことがありませんが、「大学に入学すること」が目標だった私はそこからどん底の人生へと迷い込んでしまうことになります。
大学を2年で中退
親の期待に応えるために「大学に入学すること」を目標としてきた私は、大学生活を楽しむことができませんでした。
大学生のうちに人生のキャリアプランを思い描けているほうが珍しいと思いますし、将来のことは適当に大学に通いながら考えれば良かったでしょうけど、「何のために大学に通うのだろうか」「時間とお金の無駄ではないだろうか」と考えるようになりました。
一方で、大学生活の中で私はアルバイトが楽しくて仕方ありませんでした。頑張った分だけ評価され時給UPしてもらったり、普段の自分では想像もできないような大きな声を出して接客やビラ配り、キャッチをしたり。(カラオケ店で働いてました)
ある日、アルバイト先の先輩からネットワークビジネス(ねずみ講)に誘われて数十万円の借金を背負いました。1人誘って会員登録してもらえれば500円、その会員がさらに登録してもらえれば・・・
# nezumikou.sh
# お金がない
money=0
# 友達3人しかいない
friends=3
# ネットワークビジネスで稼ぐぞ~
while [ "$friends" -gt 0 ]
do
echo "オイシイ仕事アルヨ"
if [ "$?" -eq 0 ]; then
money=$((money + 500))
friends=$((friends - 1))
else
echo "テメェとは絶交だ!"
friends=$((friends - 1))
fi
done
いや、そもそも友達おらんやんっ!
・・・そんな出来事も重なり、
という変なテンションになり、親の説得を押しのけて、2年で大学を中退しました。
(ネットワークビジネスのことは親に内緒のままです)
ま、単に大学に通うのがイヤだったんでしょうね。友達もいなかったし。笑
ネットワークビジネスは数少ない友達からのありがたい忠告ですぐにヤバイことに気付き脱退しました。
今振り返っても「大学卒業しとけばよかった~」とまでは思いませんが、若気の至りというか、考えが浅はかでホント親不孝者だなと反省しています。。
ちなみに父親からは、
とガチギレされました。笑
大学中退後はIT業界へ
大学を中退した私はアルバイトに打ち込みました。
実家からの仕送りも止められたので、正社員なみに働きました。
時給800円、週5で月16万円くらいだったでしょうか。
カラオケ店のオーナー(社長)に「正社員にしてほしい」と懇願しましたが、私の将来のことを考えて「自分のやりたいことをじっくり考えなさい」と断られました。社長の優しさに触れました。
そんな私はアルバイトを辞めて、「派遣社員」としてIT業界で働く道を選びます。
大学中退という負い目もあり自分に自信がなかったので、「正社員」ではなく仕事のマッチングが早く時給もそこそこ良い「派遣社員」に魅力を感じたためです。
IT業界を選んだのは、当時、ADSLの普及でインターネットの高速化が進み、パソコン(IT)の未来がなんとなく楽しそうに感じたからです。
派遣の仕事では、光回線の営業、モバイルデータ通信カードやWindowsフォン(今でいうスマホ)のテクニカルサポート、社内ヘルプデスクなどを経験しました。時給は1500円ほど。月給24万以上だったので、アルバイト時代に比べるとめちゃくちゃ稼いでる感覚がありました。
人生のどん底を味わう
先に断っておきますが、私の人生の中の「どん底」であって、世間一般の「どん底」に比べるとカワイイもんですので期待しないでくださいね。笑
さて、派遣社員である程度経験も積み、そろそろ就職しようと思い立って、2008年にSES企業に就職しました。ネットワーク入門資格の「CCNA」を取得し、エンジニア枠で採用してもらったはずだったのですが、なかなか案件が見つからなかったこともあり、POSシステムのヘルプデスク案件に参画することに。(顧客Aと呼びます。後述)
システムの使い方に関する質問や障害の問い合わせを受け付けて、問題を解決(ヘルプ)してあげる仕事のこと。
派遣時代のスキルが活かせることもあり、エンジニア職でなくとも前向きに取り組みました。とはいえ、個人向けと企業向けとではサポートするシステム(製品)の難易度が全然違うので、初めはめちゃくちゃ難しく感じたのをよく覚えています。
POSシステムはざっくり言うと、ドラッグストアやスーパーなどの小売店に設置するPOSレジを本部とネットワークでつなぎ、売上データの収集して分析したり、商品の価格情報(マスタ)を配信したりする仕組みです。
これから新たなキャリアがスタートすると思った矢先、入社わずか2か月で会社が倒産。社長の知人の休眠会社(SES②)に移籍することになりました。詳しい事情は覚えてないのですが、何事もなかったかのように、常駐先で仕事を続けることができました。自分の会社の社名が変わっただけ。
が、しかし、翌年2009年にはリーマンショックの波がドッと押し寄せてきました。
どの会社も同じような状況だったと思いますが、いわゆる「派遣切り」にあいます。常駐していた派遣社員、SESはほとんどが一斉に契約を打ち切られました。契約終了してからはスポット案件などで食いつないでいたのですが、さらに追い打ちをかける出来事が。
自社の幹部が会社のお金を横領してトンズラしました。被害額はたしか300百万くらいだったと思いますが、SES事業で自転車操業状態だった会社はとたんに立ち行かなくなり、私たち社員への給料が遅れたり支払われなくなっていきます。そして、結局倒産。
未払賃金の立替払制度によって数か月後には未払い分を無事受け取ることができましたが、ホント精神的に疲弊した記憶しかありません。。
その後、またまた元社長の知り合いの会社(SES③)に移籍することになります。給料未払いによって会社の仲間たちはみんな去っていったのですが、私だけは元社長のところへついていくことにしました。一緒に来てほしいって口説かれたんですよねぇ。単純。
偶然の再会
移籍先のSES③の会社で偶然の出来事が起こります。
前にお世話になった「顧客A」の案件が前回とは全く違うSESルートで末端の私のところに流れてきました。笑
今度はPOSシステムのヘルプデスクではなく、人事システムの開発支援とテストで3か月ほどの短期案件でした。
ってことで、再び顧客Aに常駐して働くことに。
3か月で終了と思いきや、ヘルプデスク案件のほうからまた声をかけて頂いて、無事?元の仕事に返り咲くことになります。
とはいえ、SES③の待遇は月給25万円、残業代なし、手当てなし、賞与なしだったので、どんだけ頑張っても年収300万円止まりの状態でした。
そんな状況を打開すべく、2012年に顧客Aに転職することになります。
そうですね。SESではやっちゃいけないタブーの一つです。(よく聞く話でもありますが・・・)
自社、1次受けの会社には私の思いを伝え、ビジネスとしてはタブーだけれども、私個人の人生を応援してくださり、温かく見送って頂きました。やっぱり社長は優しい。感謝。
人生の転換期
2012年に顧客Aの社員になった私は年収が100万円ほどUPしました。人生はこれで安泰だと信じ、とにかくガムシャラに働きました。
ヘルプデスクの業務以外にも、POSレジを新しいものに入れ替えるプロジェクトのリーダーを任されたりもしました。
私は開発者ではないので、POSレジのソフトは当然開発チームが作り上げるのですが、出来上がったソフトをPOSレジ(Windows)にインストールし、それを順番に店舗にばらまく(展開する)ための計画立案、手順作成、設置支援などが私の役割でした。
そんな私に転機が訪れます。
2016年に自社POSシステムのクラウド(Azure)対応が発表されました。
インターネットなどのネットワークを経由して、コンピュータ資源をサービスの形で提供する利用形態のこと。Microsoftの「Azure」のほか、Amazonの「AWS」、Googleの「GCP」などが有名。
これはチャンスだと思いました。
社内では「クラウド」という言葉は飛び交っていましたが、正直、営業さんが雰囲気で使っているだけの印象でしたし、
って人がほとんどで、インフラに強い開発者はそれほどいなさそう。
「クラウドに詳しい人」のポジションが狙えると考えたのです。もともと、ネットワークエンジニアを志望していた私はクラウドにも興味があり、すぐさま資格取得に向けて勉強を始めました。
資格取得を上司へアピールしてからはほぼ思惑通りに進みました。
クラウド対応したPOSシステムのサポートに向けたメンバー教育、クラウド監視のための運用設計など、技術的には広く浅くですが、「Azureに少しだけ詳しい人」の立ち位置で新しいことを任せてもらえました。錯覚資産ってやつですね。
しかし、所詮は運用・保守部隊。
ヘルプデスクの部署のままではこれ以上、技術的なスキルアップは望めないことを悟り、設計・構築ができる開発チームへと異動させてもらいました。
フリーランスとして独立へ
2018年に開発チームへ異動し、エンジニアとしてのキャリアをスタートさせます。
開発チームの中でもAzureの設計・構築といったインフラ部分をメインで任せてもらえたんですが、資格取得程度では歯が立たないことを痛感した半面、毎日が新鮮で本当に仕事が楽しかったことを覚えています。
1年後、会社を辞めてフリーランスとして独立します。
実は、異動する時から会社は1年で辞めるつもりでいました。
以下の記事で語っていますが、異動を考え始めた頃には「フリーランス」への憧れがあって、とりあえず実績を作るために異動という選択肢を選びました。
独立と同時に副業もスタート。
Azureの資格取得など、ITスキルの学習でよく利用させてもらっていた「Udemy」というEラーニングのサービスがあるのですが、今度は講師の立場としてAzureの入門コースを作成・リリースしました。
この記事を書いている2020年9月時点でちょうど1年になりますが、おかげさまで受講生3000人を突破することができました。受講してくださった皆様、本当にありがとうございます!
コース作成はそりゃもう大変でしたけど、やってみたかったんですよ、先生ってやつを。
ヘルプデスクの経験が長いので、一般ユーザーの目線で物事を説明したり、チームメンバーの教育をする機会が多く、おしゃべりは超絶苦手ながらも意外とこういう仕事が向いているのかもしれません。
情報発信は自分のためでもある
私はずっとIT業界で働いてきましたが、いわゆる「非エンジニア」の職種から37歳でフリーランスエンジニアになりました。結婚し、35年ローンで家を購入し、子供ができたタイミングで
と本気で人生を考えるようになり、絶対に失敗できない時期にフリーランスという道を選択しました。残業続きで子供と顔を合わせられないとか、土日も出社して子供と遊べないとか、リアルに想像すると恐怖を感じたんですよね。。原動力は息子。
フリーランスを選んだことが正解だったなんて思っていません。これから先どうなるかわかりませんし、不安は常につきまといます。
ただ、自分の頭で考えて、自分のやりたい事をやるために少しの勇気を持って行動したら、全然知らない世界がたくさん見えることをあなたにも知ってほしいと思い、このブログを始めました。
30代後半でフリーランスになろうと思い立つ人なんてそれほど多くはないでしょうし、フリーランスという働き方自体、まだまだ日本では認知されていないと思います。
そんな中でも、フリーランスに興味があったり、同じような境遇で悩んでいる人に向けて、お役立ち情報を発信できればと思っています。
「誰かのために」は生きていく上で根底にある欲求みたいなところがありますが、ただ、私は情報発信(副業)は当然「自分のためでもある」と考えています。
「そりゃ、ボランティアではなくビジネスとして稼ぐためにやってるんでしょ」と言われればそうなんですが、正直に言うと苦手克服のためにチャレンジしている感もあります。笑
・動画収録(Udemy)・・・喋るのが苦手
・ブログ・・・文章を書くのが苦手
ま、ぶっちゃけ、コミュ障なんですよ。
私の副業はコンプレックスを潰すための”リハビリ”かも。
私の第二の人生はまだ始まったばかり。
行動するきっかけを与えてくれた奥さん、息子に感謝しつつ、これからもファミリーのために頑張って稼ぎ続けます。